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2018年1月23日

黒田城跡‥兵庫県西脇市黒田庄町黒田1330

2014年 黒田城址、姥が懐を訪ねました
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2014/12/blog-post_29.html

その時は、登城はいたしませんでした‥しかし、今回は、登ってみます
標識があります‥この付近の広い路肩?に「P」します
観光客のために、配布されている「黒田ぶらぶらマップ」です
右上の赤四角は、瀧尾神社です
そして、左下の赤四角が、黒田城跡です
以前は、ここで断念したのです‥通行止めと思ったのです
あれから、色んな場所、巡って分かったこと、山への道には、獣避柵が設置されている‥
勿論、鍵がかかっていれば、不可・・・簡単な閂ですから、轍もあります‥OKですね
この坂道を登ります
紫の幟、見慣れた?黒田官兵衛の地ですね・・ここが登山道の入り口です
二手に分かれます
この場所より、柵を開け、1kmほど登るのが、山城の痕跡は残りませんが、物見櫓が存在してと思わせる平地があると‥
左に行きます‥下案内板の左隅 なんと、「P」と記載がありますので、車で上がれるようです
歩くこと、数分、到着です 稲荷神社の鳥居です
稲荷神社

到着です‥黒田城跡

黒田官兵衛のキャラクタ‥「へそのかんちゃん」がいました  ベンチもあります
へぇ~ 「へそのかんちゃん」って、いうのですね 西脇市は日本のへそだからですかね?
西脇市には、東経135度・北緯35度の交差点があり、ここが「日本列島の中心」に当たることから、「日本のへそ」のまちとしてPRしていますよ!

黒田城・夢の跡
・・・北播磨黒田官兵衛誕生地の会、西脇観光協会
初めてこの地に武士集団がやってきたのは室町時代(1350年頃)です。播磨の国西部で大勢力を持つ赤松則 村(円心)の弟円光も武勇に優れ、元弘の乱では大活躍をしました。円光は楠木正成の姉を妻に娶り東播磨 に勢力を伸ばそうと加西郡河内(現在の加西市河内町)に城を築きます。円光の息子で、兄の敦光は別所五郎と 名乗り別所氏の祖となり、三木城主別所長治まで続きます。また弟の重光は、丹波との国境を守るべく この地にやってきて黒田重光と名乗り、黒田城黒田氏初代となります。
初代重光は、この黒田に父祖の霊を弔うべき円光寺を建てます。二代重勝は明徳の乱に参戦し、武功ありと伝わり 、五代重範は京都洛北や大永七年(1528)には、浦上追討に摂津まで百三十騎を従え駆け参じます。
時代は徐々に各地の国人領主が勢力を伸ばし、虎視眈々と隣接領地の侵略を狙う状況で、当地黒田の周囲も 丹波赤井氏、滝野川(加古川)西の石原氏、南の大志郷は村上氏が治めており緊迫状態が続きますが、元亀三年 (1527)石原掃部助、赤井五郎の連合軍の戦いに敗れ、九代治隆以下一族郎党全滅となり、黒田城とその痕跡は 消滅しました。
時を経て文明四年(1784)姫路で小寺職隆(官兵衛の義父)の墓地が発見されたことから霊廟建設のため福岡黒田藩 の普請奉行が姫路へきました。業務の合間に小寺家菩提寺の心光寺古文書のなかに「黒田官兵衛多可郡黒田村 の産なり・・・孝隆は美嚢守の猶子(養子)也」云々を見つけ、この地へ調査に参りました。すでに城の痕跡はあり ありませんでしたが、古老より聞き取った情報を絵図に記録し、現在の地図に落とし込んだもが上図です ・・・説明板より引用
 


ここからの眺めの説明ですね                           
上の説明の場所の実写です  よき、景色ですね!
ベンチに座り、暫し‥武者が駆け巡ったであろうと想像を巡らせ、景色を楽しみました
撮り鉄風に・・・最下部に、電車が走っています・・・(^^;)

石碑‥黒田官兵衛誕生の里
・・・左のポスト?の中に、前出の「黒田ぶらぶらマップ」がおかれています‥m(_ _)m
県道264号線から望む黒田城跡・・・赤い鳥居が見えます
黒田庄町黒田‥二度、訪れました‥
不思議と、また来てみようかな‥次回は、緑濃い季節にね‥そんな気持ちになりました・・・(*^_^*)



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