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2017年7月14日

天王山、宝積寺・・・国指定重要文化財・・京都府乙訓郡大山崎町!


宝積寺は、京都府乙訓郡大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の寺院・・
山号は天王山または銭原山、本尊は十一面観音・・と!


そう、天王山・・・山崎の合戦が、一番先に浮かんできますね・・
・・・案内板を熟読すると・・・
天王山…
古来、天王山は軍事、交通上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきました
その要の位置を占めている山が標高270.4mの天王山です 天王山は摂津国と山城国の境をなし、また西国と東国 を結ぶ重要なポイントであり、山と川との間は最も狭い部分で200mたらずしかなくここを通らずして西にも東にも行けないという位置にあります
古代、この山には名はなく、中世になって、山崎山、そして山頂近くに酒解神社が建立されて牛頭天王を祭ったためそれから天王山の名が生まれました
しかし、この名がしられるようになるのは室町時代の応仁・文明の乱の時からで、地域的な重要性から天王山に城が築かれたびたび合戦が行われました。やがて最も知られている天下分け目の天王山「山崎合戦」が天正十年(1582)六月十三日、夕刻四時頃山頂、山麓で明智軍、羽柴軍との間で繰り広げられました。やがて勝利をおさめた羽柴秀吉は天下統一をめざすため天応残山頂に天守閣をそなえた城を築城し大山崎を城下町としたのです。
このような歴史を、もつ天王山には今日数多くの神社仏閣、史跡などが残されており、訪れる者に歴史の重みを感じさせてくれます
中世の繁栄を今に受け継ぐ離宮八幡宮や宝積寺には数々の文化財があり近世の幕開けとともに建てられた妙喜庵内茶室「待庵」(国宝)は利休が建立した唯一の現存茶室として有名です
その他にも古代から近世に至る様々な歴史を秘めた天王山です…案内板より引用


ということを、頭に叩き込んで、参拝しましょう…

車一台の幅の坂道、これ、結構、キツイです・・・はぁはぁ、云いながらたどり着きました!

山門・・・三間一戸、切妻造
・・・・聖武天皇勅願所の石標が立つ・・・

金剛力士像・・・国指定重要文化財

寄木造、彩色、阿形(那羅延金剛力士)、像高284.2cm




・・・吽形(密迹金剛力士)像高277.5cm


参道を・・・右手に三重塔・・・

豊臣秀吉 一夜之塔 国指定重要文化財・・・三重塔

三重塔・・・桃山時代、本瓦葺、総円柱、大日如来坐像安置


本堂が見えてきました

本堂・・・京都府登録文化財
・・・入母屋造、本瓦葺、慶長十一年(1605年)改築・・・
扁額・・・天王山
・・・内陣の厨子に本尊十一面観音立像を安置する・・・

養老七(723)年11月23日、龍神が唐土より万宝第一(何事も叶う) の打出と小槌を我国に伝来されました。神亀元(724甲子)年、聖 武天皇は行基菩薩に勅命され寶積寺を建立し、打出と小槌を奉納 されました。しばらくして御本尊大黒天神を印度よりお招きし、 お祭り申し上げました。以来、財福・繁栄・増進の神様と崇められ、 打出と小桜の加持を求める御信徒が、大勢参詣されております。 当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、その昔大洪水で橋が流出し 民衆が途方にくれていたとき、どこからともなく一人の翁が現れて、水面を自由に歩き、見事橋を 復元されました。
その翁は山に上り、当寺本堂のお厨子に入られました。 以来、当寺の本尊十一面観世音菩薩が翁に化身されて、橋を掛けられたとの評判がたち、橋架観音と呼ばれるようになりました 天正十(1582)年の山崎の合戦、元治元年(1864)の蛤御門の変に於て 当寺へ陣地となり戦禍を蒙り、伽藍は一時荒廃しましたが、歴史の重要な舞台ともなり、 どの時代にあっても現世利益の信仰はすたれることなく、今日もなお興隆の一途を歩んでおります。


宝物殿・・・
・・・本堂、宝物殿、拝観できますので、拝観料を受付で・・・

閻魔堂内部には、このようなに、恐ろしい形相の開魔大王がいてはります
・・・戸、開けて入ると・・・おっ!・・と、たじろぐ感あり、圧倒されます・・・

閻魔王及び眷属像・・・国指定重要文化財
閻魔堂は鎌倉時代作の閻魔王坐像(像高160.9cm)、および閻魔の法廷で書記を務める冥界の役人の司録坐像(像高143.6cm)、司命坐像[3](像高122.4cm)、倶生神坐像[4](像高114.5cm)、闇黒童子(暗黒童子)坐像(像高110.5cm)の5躯の木像を並べて安置し、地獄の法廷を再現する・・・
これらの像はもとは天王山西麓にあった西観音寺に安置されていたもので、明治の廃仏毀釈で西観音寺が廃寺となった後、宝積寺に移された・・・Wikipediaより引用
・・・写真撮影不可のため、拝観券で・・・


九重石塔…大山崎町文化財
・・・鎌倉時代、五重塔として建てられ、その後九重に積み上げられた聖武天皇の供養塔

十七烈士の墓・・・
元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた・・・

待宵の鐘…

永正十六年(1519)とよめる・・・
室町時代の永正十六年(1519年)、大山崎・松田宗誠寄進・・・
 ・・・石清水八幡宮別当清水光清の娘、待宵小侍従ゆかりの「待宵の鐘」であります・・・
・・・歌人待宵小侍従は・・・
 「待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは」・・と詠んだことから、待宵小侍従と呼ばれるようになりました・・と、あります


配布パンフから・・・宝積寺にまつわるお話を・・・


山崎の合戦物語 ・・・
天正十年六月二日織田信長は明智光秀に急襲され、本能寺の炎の中で自刃しました。
これを知った豊臣秀吉は備中高松より急ぎ京に向い、6月12日山崎街道に入り、当地宝寺を本陣とし、翌13日夕刻大勝利を おさめました。これが有名な山崎の合戦です。
その後、一年間宝寺に滞在した秀吉は、ここに山崎城(財寺城)を築城したとされていますが、 現在天王山中腹に石垣らしきものが残るのみとなっています。

一寸法師物語 ・・・
大阪で生まれた一寸法師は、自ら運を開くため、おわんの舟とはしのかい、針の刀を持ち、 おじい様とおばあ様に別れを告げ、淀川をさか上っていきました。途中 山崎で下舟した一寸法師は、当地宝寺で修行を重ねました。当時都では、おそろ しい鬼があばれ回り人々を苦しめておりました。修行を終えた一寸法師は、さっそ く都に上り鬼を退治し、ほうびで立派な若武者となり、美しいお姫様とおじい様と おばあ様と幸せに暮らしましたとさ‥‥


と、いうことで、歴史上、知らないものはいない?と云われる、山崎の合戦・・
そして、今は解消されましたが、万年大渋滞の天王山トンネル・・関係ないか!

その地に天王山に位置する、宝積寺に立ってみて・・・
西みれば、石清水八満宮が見えたであろう・・・
そして、北の方位も見渡せる要の地・・・凄い山ですね・・・

そう、今更ですが、日本史、勉強しとけばよかったかなぁ・・・遅い!・・・(^^;)







参拝日:2017年6月12日







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