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2016年2月7日

旧来住家住宅・・国登録有形文化財・・兵庫県西脇市!

兵庫県西脇市を散策します・・・まずは、国登録有形文化財、旧来住家住宅です!
西脇市といえば・・東経135度線、北緯35度線が交差しており、経緯度で日本列島の中心点に位置することにちなみ「日本のへそ」と・・・!

いきなり、マンホールですが・・・(*^_^*)

兵庫県北播磨地区の北側、神戸市の北約50kmに位置し、東経135度線、北緯35度線が交差しており、経緯度で日本列島の中心点に位置することにちなみ「日本のへそ」としてアピールしている。
兵庫県北播磨県民局管内に区分されている。
北播磨地域中心の都市であり、中国山地の西光寺山を市の頂点にして加古川流域沿いに播磨平野があり、その流域沿いに街や農地が広がっている。
2005年10月1日に多可郡黒田庄町と合併して、新たに西脇市として発足した・・・Wikipediaより引用

・・・そう、あの黒田官兵衛のゆかりの地でもあります
そして、グラフィックデザイナー、美術家、横尾忠則氏の生誕地です

そして、国有形文化財、旧来住家住宅を訪ねます・・それはそれは、お見事なお屋敷です!

豊川町という信号の北・・
センティア西脇、コープ西脇・・道路を挟み、その向かいに位置しております

無料「P」も完備されていますよ!



旧来住家住宅、表門・・その前の小川?水路には、・・錦鯉が泳いでいます・・
表門から覗くと・・おおぉ・・これは・・! 凄いぞ! 
・・・・しかし、前知識、全くありません・・・・そう、通りすがりなのです・・(^_^;)

大きな屋根に圧倒されそうですね・・・
・・入母屋造・・そして緩やかな弧を描く凸型の「起り屋根」とある・・
旧来住家住宅とは・・・
大正時代、地域の名士である来任梅吉の私邸として建てられました。  母屋は、中央に廊下をはさんだ南北二列の間取りで、南列三部屋が接客用、北列3部屋および2階が家族用の空間になっています。
東端には裏門へ通り抜けできる土間があり、その一角に台所や家族用の風呂が設置されています。
母屋の西南には庭園が配され、庭を囲むように離れと客湯殿が仔みます。 
当家には、大正4年~6年の建築費用控帳や用材説明書が現存し、建築費用について詳細な記録が残されています。
母屋、離れ、庭園の建築費用は8万3053円にのぼり、現在の価格(米価比較)で約2億4000万円に相当します。(Wikipedia、配布MAPでは54億円とある)
今では入手、再現の困難な高級用材、釘一本も使っていない高度な技術が随所に用いられているのも特徴です。
この貴重な屋敷を、文化財の保存とまちづくりへの活用の思いから西脇市へ寄付されました。翌年2月に国の登録有形文化財に登録され、翌々年の平成15年(2003)5月1日より-般公開されています。
観 光はもちろん、まちづくりの拠点施設として人々の憩いの場となっています・・と!・・・配布パンフより引用

さぁ、お屋敷を拝見いたします!

来住家の家紋です・・・
・・・この右側が受け付けです・・そう、見学は無料ですが、記名が必要です!
玄関土間・・欅の大黒柱
写真左下:出入り口のある、鏡板戸・・楠雲輪杢の一枚板である‥
写真右下:玄関土間・・欅の大黒柱があり、その脇に家紋の透かし彫りがあいらわれている
         

次の間、欄間・・・近藤翠石画、市川周道作
鴨居や柱には洞川産の白い栂、天井には富士産の「ねずこ」と呼ばれるくすんだ鼠色の黒部杉笹杢を用いて、上品は京の趣に仕上げている・・と!
・・・・素人の目でみても、すばらしいとしか、いいようがないのです・・・・
※近藤翠石(1870~1950) :明治~昭和前期の文人画(日本南画)画家で、赤彦翠石と号した
※市川周道(1865~1933):明治~昭和初期に活躍した播磨で名高い刳物師、本名は市川万次郎、小竹斎と号した、姫路藩の士族に生まれ、師は不明  三木に来て小西周山や竹中有鳳ら優れた弟子を育て、明石や三田をめぐりながら秀作を残した・・配布パンフより引用


そして・・・ここで、失敗が・・この欄間に気を取られ、この次の間にある、橋本関雪の書、そして市川周道による、総欅の仏壇があります・・・
・・・いや、残念、写真、ありません、撮していないのです‥m(_ _)m


客間の主座敷・・・
座敷飾りの床の間(写真無し)と、床の間を引き立たせる床脇と付書院を左右に配した日本の伝統的な床構えを持つ・・

付書院・・
書院板に欅如輪杢、脇板と腰板に遠州神代杉笹杢、落掛と障子に春日杉を用いている
和歌にも詠まれてた竜田川の秋景が彫刻された書院欄間には、桐を使用・・
天然しぼりが美しい北山杉の出紋丸太を床柱に使っている・・と、ある


この付書院の右側には、床の間があるが、ひな祭りの準備中で、赤い毛氈のひな壇がありますゆえ、写真は無しということで・・

床脇・・
敷込板(地板)に竹嶋産の欅玉杢、落掛に伊勢国御山杉、違い棚に木曽産松赤あじウヅラ杢、違い棚筆返し桑、天袋板に但馬産の桑を用いている・・と!

渡り廊下を通り、離れへと・・・写真は離れ側からパチリです
・・「降りつくばい」です・・地面を掘り下げたところに唐船形の手水鉢が据えられているのですが・・
写真下部、切れていて、分かりづらいですね・・・m(_ _)m
離れ、客湯殿・・・
当時まだ珍しかったモダンなタイルが使われており、湯舟は高野槙、天井には栂材の折上天井
・・・タイルばかり気になり、天井、見ていません・・m(_ _)m
すてきな、タイルですね!
洗面台・・・イタリア産大理石を用い、洗髪用蛇口が付けられている・・
化粧室・・・客湯殿の左に隣接する小部屋で、更衣室として用いられた
簡素化された床の間、床脇、付書院を備えているが、床の間は畳面と同じ高さに地板を入れた床にし、狭い部屋を少しでも広く見せている・・・

床柱は鞍馬産赤松磨き丸太、床板は栃白玉杢、地袋・天板は鹽地玉杢、落掛は、前が煤竹、奥は櫨磨き丸太と神代杉・・
床脇・・おおぉ、古きよき時代の化粧台、懐かしいですね・・
化粧室・・左の円窓は付書院・・変り組障子を組み合わせている
離れ、座敷・・・床の間、床脇・・
床の間・・床柱は縞黒炭、落掛は鉄刀木、吹抜は、櫨、天井板は屋久杉
床脇・・・・天袋板は朱壇、違い棚は葡萄杢が美しい珍木の白木
上写真には写っていない、床框・・会議机がありまして正面から撮りませんので‥m(_ _)m
・・・「ちんくぐり」も撮すために・・・横からパチリです

天井板は屋久杉・・三尺二寸・・96.96cmの一枚板である・・見上げてパチリです!
付書院・・
書院板は白楓珍杢、脇板・腰板は薩摩杉、欄間障子は松葉継ぎ模様・・・
欄間障子は松葉継ぎ模様・・・いや!見事・・おもわず、見とれてしまいました!
離れは、座敷と次の間の二部屋から成り、茶の湯でも用いられたと・・
離れは松にこだわった建物で、柱、鴨居などに松を用いている・・・
天井板は屋久杉、黒柿を使った間越欄間は、市川周道による、彫刻・・・

表裏で図柄が異なり、座敷側は「蝙蝠」
コウモリの目は、黒サンゴ・・・
次の間側は「月に時鳥」・・・
・・・ほととぎす 鳴きつる方をながむれば ただ有明の 月ぞ残れる・・・藤原実貞(後特大寺左大臣)・・小倉百人一首 第八一番
・・・板の紋様が雲か、風のごとく見え ほとどぎす・・生きているがごとく飛んでいるように見えます・・・私感!

離れの縁を通り、母屋二階へ向かいます・・・大正ガラスの歪みが、実に美しいですね!・・渡り廊下から
母屋二階へあがります・・
畳敷きの廊下です・・左側は屋根裏とあります・・・
和室、右手前の座敷に置かれている円卓、その上に無造作に置かれている、「書」の説明書?
人間、どうしても隠れた部分が見たい? m(_ _)m・・説明書をとると・・・
これは、堆朱では?・・いや、違うか? ええ感じの円卓です・・(^_^;)

井上円了の書・・明治~大正時代の仏教哲学者・教育者 「四季七言対句」・・

・・・多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれた・・妖怪研究のパイオニア・・と、・・・Wikipediaより引用

見学者は、私、一人・・貸し切り状態・・なのです!
襖、開いていましたが、写真撮影のため、そこは、許可いただいて・・襖、閉めて・・四枚揃えて・・パチリ・・!
これから下の写真4枚の「襖絵、書」は、すべて本物です・・受付の方のお話です・・


近藤翠石の花鳥図、干支を描いた動物画などが襖絵に仕立てられている・・


ふすま、引き手・・
おくどさん・・の、梁です・・・
おくどさん・・その上の電気配電設備・・

う~ん?

おくどさんの、火とか、水とか使うところに・・・

なんで、電気配電、ヒューズBOXが位置するのかなぁ?

台所部分と座敷部分との境は天井裏めで壁が塗り込まれ、防火壁となっています

おくどさんから、外へでます・・・
井戸があります、レンガ積みの防火壁と高架水槽とのこと・・・
東蔵・・・

その東蔵、内部に貼られていた・・天明後米一俵価格表・・・
・・・天明元年(1781年)~昭和60年(1985年)まで、記されている・・
天明二年(1782年)の価格は十六銭が、天明三年(1783年)、天明の大飢饉で二十二銭に高騰している!
そして、その過ぎゆく時代、年毎の大きな出来事、日清戦争、日露戦争、大東和戦争など、その時代の内閣まで詳細に記されている・・・凄い資料が、蔵の壁面に押しピンでとめられている・・
庭園・・・
・・・西本願寺の茶道師家を代々務める藪内家の宗匠による設計、庭師今里捨之助による施工・・
生駒峠石などの庭石、多様な石灯籠が並ぶ・・・

庭より離れ座敷をみる・・
庭門・・庭園側から・・
庭門・・・
前方も鏡柱から後方に控え柱まで一つの屋根で覆われた薬医門・・
特に、戸板は希少価値の高く、広い範囲に同心円形んぽ模様がよく現れた欅一枚板を用いている・・(写真上)
鬼瓦は七福神、庭塀の柱は栂、腰板は薩摩杉・・・
屋根は、起り屋根、深い軒・・軒が下がるの防ぐために桔木を入れていると・・
妻側屋根の両端(螻羽部分)と中央に施された三筋の「風切り丸瓦」は、風をやわらげる効果というよりも、装飾の意味合いが強く、美観に一役買っていると・・・
虫籠窓・・雲形の枠に七本の縦格子をもつ虫籠窓、中央の格子は漆喰を塗らず、あえて未完成に仕上げられていおり、来住家が後世ますます「発展途上」であり続けるように、との願いが込めらていると・・・


このお屋敷の 来住家について・・配布パンフより引用します

・・・来住家は糸商や土地収入で代々栄えてきた旧家です。
なかでも梅吉は、地域の発展のために一身を捧げた人物として知られています。
西脇商業銀行を創設したほか、西脇区長、西脇町議会議長などの公職を歴任、困窮者の子息への学資援助など社会奉仕も盛んに行いました。  
梅吉は、明治24年に分家である来任萬吉の四男として生まれ、大正2年に本家、来住弁吉の娘きくえと結婚して婿養子となりました。
ちょうどその頃、義父の弁吉は、邸宅の新築を計画し、明治42年頃から用材の調達を進めていました。
梅吉が婿養子に入った同年に、離れと客湯殿が竣工。しかし、その翌年に弁吾が死去したため、梅吉は母屋の建築を受け継いで大正4年に棟上、大正7年に完成させました。
梅吉の趣味は幅広く、煎茶、抹茶、華道、謡曲、盆栽、骨董、懸崖菊、狩猟にまで及びました。 芸術への造詣も深く、後に日本画壇の重鎮となる橋本関雪を庇護します。
大正2年から4年にかけて、関雪を離れに逗留させ、当家で絵の頒布会も開いたと伝わります。
後の首相となる犬養毅氏が宿泊したのは昭和3年のこと。彼は漢詩四幅を残し、うち一幅は現在、西脇市に寄贈されています。  
昭和15年には、当時陸軍大将だった朝香宮鳩彦王も宿泊されています。
鳩彦王は、明治39年に創設された日本の宮家のひとつ朝香宮家の創始者で、弟は陸軍大将や第43代内閣総理大臣などを歴任した東久溝宮稔彦王です。
旧来住家住宅は、客人へのもてなしの心が随所に表れた邸宅です。
芸術家による絵画や彫刻、茶人よる庭園、大工による見事な細工にも、梅吉の感性や審美眼を見て取ることができます・・・と!


いや、よき、文化財を拝見できました・・
拝見所用時間、約1時間半、かかりました・・それでも、足りません・・
・・・見逃したところ、写真を撮っていないところ、多々あり、残念です!・・・

この西脇市は、そう、私の越水名水を汲みに行く、ルートの一つでもあります・・・

種の明かせば、本日も、越水名水を汲みに行く途中での大発見となったのです
と、いうことから、西脇市の花、シバザクラの咲く時か、緑茂る時に、再訪いたしたいと思います・・・

備忘録、初めてから、最長のページになったかも・・ご苦労様でした・・・m(_ _)m


追記:備忘録中に記している材料、説明などは配布パンフより引用させていただきました




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