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2015年2月7日

聖徳太子建立三太子・・下之太子、大聖勝軍寺・・大阪府八尾市!・

聖徳太子建立三太子・・・「上之太子」の叡福寺、「中之太子」の野中寺、「下之太子」の大聖勝軍寺・・地元では「太子堂」と呼ばれているとのこと・・・

2014年11月・・・友人に勧められて、聖徳太子御廟、上の太子「叡福寺」・・参拝いたしました


本日は、その「下の太子」の大聖勝軍寺を尋ねます・・・国道25号線東へ・・大阪府八尾市太子堂・・と、いう地名も交差点の100mぐらい手前に位置します・・

よくよく考えると、何度も通った道・・・なんですね!・・その時は、全く知るよしもなく・・・・(^^;)

椋樹山大聖勝軍寺と称し、高野山真言宗に属し、「上之太子」の叡福寺に対して「下之太子」という・・
日本書紀・・・「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずや、まさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」・・・
太子と四天王の由来
千四百余念の昔、仏教伝来を巡り、排仏派の反乱軍は仏教軍に猛攻を加え、太子軍は三度大敗する。時に御歳十六歳の太子は部下、四将軍に四天王の像を刻ましめ、誓願をたて排仏軍を平定する。
乱後、難波の高台に日本仏教最始の四天王寺を建立し、仏教公伝の礎となった当地渋川に勝軍寺を創建、御自身十六歳の植髪の太子像と四天王像を安置されたという・・
明治21年(1888年)台風にて本堂(地蔵堂)が倒壊、昭和四十六年復興が計画、旧太子堂の背後に新太子堂が建てられました・・
聖徳太子 救命の椋・・神妙椋樹苑!
日本書紀・・太子伝等に仏教伝来時、崇仏の蘇我馬子 敬神の物部守屋が激突、守屋は八尾に「稲城」を築きその兵力強大 崇仏軍、三度敗退す 太子 守屋の大軍に囲まれ絶体絶命の時 椋の大木真っ二つに割れ太子を包み九死に一生を得て太子最後に四天王の加護を祈り守屋を倒す
左写真:
拡大すると、木の隙間より御姿が見えます
写真下:神妙椋樹の下に史跡馬蹄石が置かれているが、入りこんで写真写すことは・・ちと!むずかしい・・
大聖勝軍寺への入口右側に・・守屋首洗池が!
守屋の首を洗ったとされる守屋池が境内の入口近くにある。迹見赤梼が放った鏑矢で倒れた守屋の首を、秦河勝が切り取って洗ったと伝えられる池で、俗に「守屋首洗池」とも言われている

大聖勝軍寺の少し東の向かいの露地を入ると・・車は行き止まりだが・・・
守屋を射た鏑矢が落ちその矢を埋めたとされる鏑矢塚(かぶらやづか)がある。
また、この鏑矢を放った弓を埋めた弓代塚も、近くの竜華中学校の南側にあり石碑が立っているのだが、残念ながら、場所わからなかったです・・・


本来なら、備忘録は別ページで記さなければならないのだが、・・関連が深いため・・このページに!

物部守屋の墓・・・
拡大してみると、「物部守屋大連墳」?・・と刻名されているようです・・?
墓の周りの玉垣には全国の有名な神社ばかり・・神社本庁、大阪府神社庁から石清水八幡宮など・・寄進しているとのこと・・・
神社は物部守屋、仏教寺院は聖徳太子というように、日本はなっているがごとき・・のように思われますね!
大聖勝軍寺の位置から、東へ100m余りの地・・・仏、神・・今でも、戦っているのかなぁ・・・

大聖勝軍寺の石碑・・・
聖徳太子古戦場・・と、あります!
と、いったところで、僅か100mの枠内の地で、千四百余念の昔、戦いがあった場所・・
八尾市、もっともっと、探れば、歴史の中に入りこんでしまいそうですね!・・・

では、聖徳太子建立三太子・・「中之太子」野中寺に向かいましょう・・・


追記:八尾市のマンホールは・・・
八尾市だから八角形、周囲に市の花キクと河内木 綿の実、内側には糸車で糸を紡ぐ姉さんかぶりの女性。
河内木綿の伝承の地、八尾市を象徴しているとのこと・・・下水管のマンホール・・

写真:斜めに撮影してしまいました・・m(_ _)m




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