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2014年10月26日

官兵衛ゆかりの地・・播磨、御着城・・・兵庫県姫路市!

先日、同じような好天の日・・姫路城、訪ねました・・・・
そして、さらに、黒田官兵衛のゆかりの地を巡らなければとのおもいがフツフツと・・・

久しぶりに、黒田官兵衛のゆかりの地を巡ります・・・
若かりしの官兵衛の活躍した、「御着城跡」からです・・

永正十六年(1519年)の昔、姫路城主木寺政隆が御着に築城移転して、此処を本據として、姫路城は子の則職に守らせた。しかし、政隆は同族、浦上村宗と戦いにて討死、黒田官兵衛の祖父、黒田重隆は姫路城主の小寺則職に仕え、常に御着城にて政務を執っていた、そして、天文十四年(1545年)姫路城は黒田重隆に任され、御着城の枝城?として・・そして、黒田官兵衛の父親、職隆に家督を譲ったとある・・
永禄四年(1561年)黒田官兵衛16才の時、城主、政職に嘱望され、禄八十石を賜り、近習として御着城に出仕した・・・案内パンフより・・

国道2号線沿いの姫路市東出張所に、石碑があります・・・この右の道路の左側は豪跡・・
「P」はその向かいにのグランド(広場)・・二の丸跡・・石碑が新しいですね!
写真左下:姫路市東出張所・・最上部は展望台ですが、現在は不可とのこと・・この姫路市東出張所を造る時、市長が城のイメージでとのことで造ったと・・・素晴らしいですね!
写真右下:無料説明ボランティアさんがいてはるところ・・ここで、時間ありますか?・・・と!
もちろん・・最近、ガイドさんいれば同行いただき、説明を聞く私がいますm(_ _)m
まず、ガイドさんが案内いただいたのが、本丸跡、東出張所前の広場、西側に立つ・・黒田官兵衛、顕彰碑・・
そして、目薬の木・・・おおぉ、これが、黒田重隆の・・目薬の木か!!
写真左下:黒田官兵衛、顕彰碑 写真右下:目薬の木
黒田家廟所・・・
写真右下:向かって左が重隆公、右が職隆公夫人明石氏(孝高の母)の五輪塔
享和二年(1802年)福岡藩により用材木、石等筑前より運び廟所を完成した
そして、昭和43年黒田家に於いて完全修復された ・・・・と!
と、いうことは、黒田家は続いている・・・ググってみました・・女系の血統で存続しているとのこと・・
黒田長貞(秋月藩)の娘・春姫(高鍋藩6代秋月種美の正妻)の次男が、出羽国米沢藩の第9代藩主あの上杉鷹山とのことです・・・いやはや、驚く史実ですね・・・

ここに使われている石は、龍山石・・兵庫県高砂市伊保町竜山に産する石で、淡緑色あるいは淡黄褐色の流紋岩質凝灰岩。耐火性に富み,風化しにくい。古墳時代の石棺に,また姫路城の石垣にも用いられたとある・・・
写真右下:石燈籠には「享保二年十一月十二日」と刻まれているのが、なんとか判別できます!

この廟所を取り巻くがごとく、この右側は玄関に続くアプローチのお宅が・・廟所の前を通るのか
・・・東出所の中を通るか・・う~ん! お宅の場所、凄い!・・
それと、廟所をお守りいただいているのかなぁ?・・黒田家の関係の方かなぁ?・・想像が膨らみますね!

東出所の裏に残されている、旧天川石橋・・・・
旧山陽道の天川に幅二間(3.6m)長さ十四間(25m)の総石造りの太鼓橋・・文政十一年(1828年)
山陽道を往来する大名に対し、姫路城の威信を示したもので、山陽道ではこれに比肩する石橋はなかったと言われる。石橋は、昭和47年9月9日朝、天川増水の為、中央部から折損落下した。
一般の供養と永久保存の為、東出張所の北に移築復元された
では、2号線を歩道高架橋を渡り、南側へ・・ガイドさん・・白丸箇所、全て同行説明いただきました

どちらの地図もパンフより引用
右図は宝暦五年(1755)に製作されたという。
浄化m値の昔、城の秘密が洩れるのを防ぐた
めに旅人を廻り道させた旧往環が記されている
歩道高架橋を渡り、東出張所前には・・・小寺大明神・・・
写真左下:小寺大明神(天川神社)・・三代の城主と当時の戦死者も祀る
写真右下:城主供養の奥都城と歌碑 ・・・
奥都城(おくつき)・・知りません・・ググってみました!
上代の墓のこと。またそこから神道式の墓のこと・・ありがとうございました

毎年、四月二十九日・・全国から小寺家、黒田家、天川家の子孫と関係者が多数参列して小寺大明神と黒田家廟所に於いて祖先慰霊の為、大祭りが執り行われると・・・すごいね、脈々と続いているのやね・・・

御着宿 本陣跡 今は御着公民館 敷地2100坪、部屋数30 畳枚数175畳 建坪130坪の平屋の本陣・・・と!
この前の道は「西国街道」・・山陽道とも言われるが、西国街道のほうが私はなじみが深いです!

都市景観重要建築物・・・小**家・・・このお宅が、この近隣の神社、寺院のあちらこちらに名が刻まれていますね・・・商いで財を成した方らしい・・・小**直**さん
西国街道の町並・・・・ 写真右下:都市景観重要建築物のお宅!
大歳神社・・御着の獅子舞は発祥が大変古いらしい・・
拝殿の絵馬・・写真左下:絵馬配置図   写真右下:絵馬、ピンぼけm(_ _)m
北条山延命寺(天台宗)・・明治十八年八月、明治天皇山陽道御巡幸の際、当山に玉駕を停めさせ給いし、故、御着御小休所として史跡に指定・・戦後、解除されたらしい・・・
ガイドさん曰く・・丸に十の家紋が・・なぜか?・・寺に問うても家紋とのことで、分からないらしい・・
写真右上:板碑、上部に梵字 ・・貞和元年(1345年)右に酉年仏らしい文字がかすかに見える・・と、知りません!・・又々、ググってみました・・・
梵字(ぼんじ)はインドで使用されるブラーフミー文字の漢訳名である

大乗寺法華寺(日蓮宗)・・・永楽年間(1429~1440)に法華堂一宇が創立された
明治、二十五年、村雲御所門跡第十世日栄大法尼公、当寺へ来駕せらる・・
当山の筋壁はこの由来による・・・筋壁、見たとき、う~ん?と、思っていたのです・・実は!!
大榎と庚申堂・・・秀吉公の乱暴狼藉禁制が出されたとのこと 大榎は姫路、保存樹です
火山です・・・大榎の場所から見た、姿です!
御着城の南の方向で神楽山ともいう

天正七年(1579)秀吉の大軍が御着城を攻めた時、兵は敗走して火山の辰巳の谷に逃げ込んだ。
その時よりこの谷を引き入れ谷という

金剛山徳證寺(浄土眞宗)・・・
門は開いておらず、ガイドさん、首かしげていましたね!
当寺は初め、播磨国国分寺尼寺で、真言宗の古刹であったが、高野山女人禁制にて参詣許されず、本願寺八世蓮加上人の法話を聞き、眞宗に帰依したとのこと・・・
御着城主、小寺政隆帰依し、則職の時、寺を城内に移したと・・・・尼さん、怖しやね!

現在の堂宇は享保中頃、改築とのこと・・・・塔の造りが珍しい形かなぁ?
さぁ、終わりました、御着城、御着の街・・・・帰りましょう!
国道2号線の歩道高架橋・・その上から見た2号線・・・ズームですが、赤丸、姫路城が見えます!
ボランティアさんのガイドさんの案内で楽しい、有意義な時間が過ぎました・・・
なんと、2時間30分・・・ありがとうございました!
で、その建物の中に、NHKのポスターが、もち、パチリです!

そして、写真右下、今回お世話になった ボランティアさんのガイドさんの背中です!

お顔は失礼と思い、許可を得て、背中を記念に撮影いたしました。
ほんと、親切で、詳しく説明いただきました・・m(_ _)m
ボランティアさんのガイドさん曰く、説明案内は、むずかしい・・・説明受ける方々の今後の予定とか、許される時間とが大事で、・・説明、長くなって、叱られる方もおられると・・
「責任者出せ、電車に乗り遅れたとね!」・・・聞かなければいいのにね!

で、私に、親切にお茶をいただき、ふと、みれば、・・
・・・なんと「目薬の木」の飴、せんべいを販売していました・・・・早速、買い求めました!

メーカをお聞きしましたので・・・
ネットで、お茶を買わなければ・・・ね!

効能として、白内障、肝機能に・・と!
ほんとにありがとうございました・・・御着城・・ガイドさん、次は、妻賀(めが)、英賀(あが)へ・・・行って下さいね・・地図まで書いていただきました・・・
はい、今日は時間が無理なので、次週、参りますので・・・・

その、 妻鹿の国府山城跡、黒田職隆廟所、英賀城跡へ・・・青空の日を選んで、いきましょう・・!






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