神戸市で唯一の国宝、太山寺本堂を訪ねました・・・その折り、本堂の建築様式からググっていると・・・
折衷様と云われる言葉が出てきました・・そこから折衷様をさらにググっていくと・・・観心寺がありました!
・・勿論?、知りません・・・はい!・・・>
で、その場所は・・左図、赤四角部分! 大阪府南河内地域に位置する、河内長野市、金剛山、千早赤坂村村・・ なかなか、訪れることが少ない地域やけど・・・ 紐解くと・・千早赤坂村村・・大阪府唯一の村で・・ 楠木正成の出身地として知られ・・ 役行者が修行したと言われる金剛山があるのです この、楠木正成が実は、観心寺と大きな関係があったのです |
国宝、重要文化財の建物探訪が主たる目的で、巡っていますが、言葉、ひろって・・ググっていくと・・
まぁ、これが繋がるは、繋がるは・・次から次へと・・興味津々です
と、いったことから、今回は、「高野山真言宗 遺跡本山、観心寺の国宝、金堂」を訪ねます・・
観心寺の国宝、金堂は南北朝時代の建立・・・
建築様式に、伝統的な和様と禅宗様の要素が混在している、いわゆる「折衷様」建築の代表作とされる。
重要文化財の建掛塔、そして、重要文化財の訶梨帝母天堂・・その他、重要文化財だらけ、失礼な言い方をm(_ _)m
見応え満載ですね!
河内長野市は、仕事で、訪ねたこともありました、過日は高野山の帰途の途中通過しました!
市街地より金剛山方面へと入った山麓、国道310号線から奈良、五条へ向かう途中に、観心寺があります
観心寺は奈良時代からの歴史を有すと伝わる古刹であり、そして、前述の河内の豪族である楠木氏の菩提寺なのです!
「P」の案内看板に従って「α君」を停め、うん?と思いながら・・実は山門前に「P」があったはず?・・まぁ、ええか!・・と
国道歩くと、本坊、重要文化財、本坊書院、工事中・・・そこには、たしか、本坊門、勅使門が・・しかし、シートで覆われ、姿見えず・・・残念!
歩くこと、70~80mあまり・・「P」が現れました・・・その「P」には楠木正成の馬上姿が・・・・
いただいた、パンフの境内図見ながら、さぁ、・・と、いう前に、納経所の隣が・・中院門・・その奥に、中院が・・
(写真左上:納経所が、受付 写真右上:中院門)
中院・・楠木家の菩提寺、楠木正成八才から十五才までの学問所・・正成の首級が送り届けられた時、長男正行が切腹しようとしたところ・・と、ある!長が~い、石段の続く坂道・・・どうです、この雰囲気、静寂感・・最高です・・山門をくぐり、見上げて、パチリです!
右手に拝殿が・・写真左下:石段側から 右下:鎮守堂側から
一間社春日造、檜皮葺、後村上天皇によって、再興、楠木正行が監督するとあります
写真右下、見事な彫刻です
金堂の前には弘法大師、礼拝石があります(写真右下)
室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代中期、明治の初め、昭和の初めなど度々修理し、昭和五十九年に昭和大修理の落慶をみたと!
本尊は外陣からは良く見えなかったですが、如意輪観音、不動明王、愛染明王、内陣には板製の両界曼荼羅がある
金堂の前には弘法大師、礼拝石があります(写真右下)
金堂の堂内へ入ります・・・そして、向拝から・・・石段、山門へパチリ・・(写真右下)
そして、『日本三大如意輪』は西宮市神呪寺、室生寺(奈良)と並び『日本三大如意輪』なのです!
ここで、室生寺は訪れました、西宮市神呪寺・・近く?なのに未だ・・では、近々?・・・
向拝の手挟に観られる彫刻には、彩色が施されています 昭和大修理のお陰で、朱色が鮮やかです! |
再登場ですが・・・・建掛塔側から見る、国宝、金堂です・・この方向からの金堂、綺麗です!
未完のまま姿・・三重塔の初段として、見たところ、なにか、うん?と思わせる立ち姿? しかし、これはこれで、ええやん!・・なんて、つぶやきながら一周しました!・・あくまでも私感です!
建掛塔の側に、鐘堂があります・
なにやら、片隅で手入れも行き届かいのか、使われないのか・・・ 鐘の下には色々と物が置かれていますし、寂しそうに建っています |
きつそうだし、迷いましたが、参拝することに・・・・これが、エライことに・・・
急な坂道、石の階段が・・・想像どうり、きつい、えらい、急坂、つらく、脚、ガクガク状態!
汗ボトボト、脚、ガクガク・・なんとか、降りてきました・・・次は、開山堂(本願堂)・・
開山堂の裏山には、道興大師御廟があります |
正成湊川にて討死後、足利尊氏の命により、その首が当寺へ送り届けられ、ここに祀られると・・・ 写真の右隅の石碑の字体、正成、自筆とある! |
なんのことかと、ググってみると・・・Wikipedia引用
古記録、地域伝承、墳丘の形態や規模、出土品等により、宮内庁によって皇族の墳墓とされたが、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓・・と、ある! ・・・ Wikipedia引用 |
弘法大師が境内に勧請された北斗七星の塚、北斗七星を祀るのは、日本では、観心寺のみ・・と、ある!
境内図を見れば、大小はあるが、七箇所あります・・・ |
金堂前から石段を降りていきます・・しかし、脚、ガクガク、汗、ボトボト・・・・
誰もいない、石段に座り、しばし、休憩・・・横見れば、苔むした、石燈籠・・・おもわず、パチリ・・・ 刻まれている文字は「元禄三年・・」と、見えますが? |
館内にあった、パンフを・・すみません!・・クシャクシャになっていますm(_ _)m
このなかでも、如意輪観音・・(赤枠) 本尊の試作と伝えらているが、秘仏本尊の前立ちとして彫刻された像 |
勿論、撮影禁止・・看板小さいから撮影している先人もいるかもね!・・ほんと、看板は片隅にあるから・・要注意、要確認です!
霊宝館のとなりへ、恩賜講堂が・・・大きく、堂々した建物ですね・・・(写真左下、右側、霊宝館)
降りてきました・・・受付に先ほどの後村上天皇桧尾陵に参拝しましたが、石段長いですね!・・って、尋ねると!
240数段あり、勾配きつく・・と、教えてくれました!
そして、 大阪府最古級の国宝建造物・・・堺市桜井神社の割拝殿がありますよ!・・って!
・・・おおぉ、いい情報が・・・後日、伺いましょう・・・
受付、納軽所の反対側には後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)が・・・・
写真右上:観心寺境内図
いや、静寂感漂う、こころ落ちつかせてくれる、観心寺・・・遠く、河内長野まで来た甲斐がありました!
日曜日でしたが、こんなに人が少ないとは、ラッキーでした
帰り、山門を出たところで、6~7人さんが、来られました(*^_^*)
今回の備忘録、写真多く、長文となりました・・・・それだけ、気に入ったということで・・・ご勘弁を!
最後に・・・・ 草創、開基を・・・
観心寺は文武天皇の大宝元年(701)、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、初め雲心寺と呼ばれていた。
その後、平安時代初期の大同3年(808年)には、弘法大師空海が雲心寺に北斗七星を勧請され、弘仁6年(815)、衆生の除厄のために本尊、如意輪観世音菩薩を刻まれて、観心寺と改称された。
しかし伝説はともかく、実弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は、淳名天皇から伽藍建立を拝命して、天長4年(827)より造営工事に着手とある、その作事奉行が楠木正成であった
備考:文中、説明、図は、観心寺パンフより引用させていただきました