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2014年7月14日

心月院・・・兵庫県三田市!

~心月院(しんげついん)~
懐かしいお寺です‥なぜ?
このお寺の堂内(庫裡か書院か?)にて、20数年前?から、学習塾を開いておられました
そこへ、我が息子、通っていました
どうしてこのお寺に?と‥今、考えても、理由ハッキリ覚えていませんのです!(^^;)
ですが、塾への送迎は、嫁が車で送迎を・・・
この送迎で、嫁、車、運転が上手になったのは事実です!
そして、時折、私が・・・!
送迎時に、ご住職手作りのチラシで、三田藩九鬼家の墓所ということを知ったわけです
その時代のお寺は、確か、周りは畑‥墓所は鬱蒼とした、暗いところ‥そりゃそうです
迎えの時間は午後8~9時前後‥
興味本位で、迎えの時間の合間に、三田藩九鬼家の墓所に行ってみたことがあります
決して、気持ちのいいわけがありません
ゾクッとした記憶のみあります!・・・あぁ、恐!!

心月院
寛永10年(1633年)に鳥羽より移封された初代三田藩主九鬼久隆は、この地にあった梅林寺を増築し、寺号を改め、天翁山心月院と称した。鳥羽の菩提寺常安寺の覚雄是的和尚を迎え開基し、九鬼家代々の菩提寺とした。寛文5年(1655)に山号を清涼山とする。境内には、先代守隆から十三代隆義まで、歴代三田藩主の墓石がならぶ。
                     ・・・三田市、歴史の散歩道 案内板より引用

昔、畑だったところが、「P」に? 「α君」を停め

山門を・・・
瓦葺、単層、平八切妻造、桃山時代‥
妻入りの梅鉢懸魚、唐様鎌倉様式の木鼻以外装飾は少ない
天正13年(1585年)創建時の建物!
山門をくぐり、参道を進むと
なにやら懐かしさを感じる、記憶が蘇る!
総門が‥左右に連なる廻廊が‥

総門
四脚門に唐破風をつけた向唐門で、兎毛通しは、桃山形式である‥宝暦3年(1753年)の建物!

五月が綺麗に剪定されたお庭の左手には、経蔵が‥天保6年(1835年)の建物!

ではその経蔵の左手の坂を・・・
‥すぐ右手に、白洲次郎、白洲正子の説明板があります

心月院は、白洲家の墓所でもあります
備考欄にて後述!
三田藩九鬼家の墓所へ・・・久しぶりに訪れたという言葉は当てはまりませんが‥
檀家?一般用?の新しい、墓地もできていて・・
以前のゾクッとする感じもなく、しかし、やはり、墓所の入口にて失礼を・・・
う~ん?‥なんでしょうね? (写真、撮しましたが・・やはり、掲載しません)

で、坂道を降りていきます
‥左の白洲家、右に九鬼家の墓所が並び・・・ここにあるなぁ・・・
と、いう感じで!・・・本堂へ参りましょう!

本堂
・・・天明6年(1786年)に火災で焼失、同年11月再建 約100畳敷きの広さにて、釈迦牟尼佛、文殊、普賢菩薩をお祀りされています
本堂へは、自由に入れ、しかも、色んな資料をご提供されておられ、偶然にも7月1日~31日まで、「江戸時代中期三田八景展」が開かれていました!
誰も居ない本堂を一人、読めもしない、掛軸の書を眺め、説明文を読み・・・
ふ~ん!と、一人、解ったふりしながら・・・一廻りして!

本堂の右手には、先ほどの白洲次郎の歴史のコーナーがあり拝見いたしました!

九鬼氏系譜など、そして、白洲次郎の資料が、整然と見事に並べ、展示され、これは一度では拝見できないと!
その時、ご住職が偶然にも出てこられ、お話ができました

我が息子が、塾で、お世話になった御礼から始まり・・・

ご住職‥塾は7年?前に閉鎖、今は書道教室を‥檀家がいないのでその授業料を建物修復にと・・・総額1億8000万強の費用で修復されたと
そして、今や、観光バスで、沢山の方がお越しになられるようで・・・

お話が、「江戸時代中期三田八景展」になり、「江戸時代の三田八景展」の小冊子をいただきました
そして、ご住職、児島政龍さんの書で、「禅宗二祖 慧可伝の研究」「心月院 伝道句集」を頂戴いたしました
今、それぞれを読んでいます
私ごときに、理解できればよいのですが!

本堂からみた、お庭、総門、山門・・・
本堂には、心月禅院と‥立派な姿の本堂です!
又、伺うことにします
「書道教室に通ようかぁ!」‥と、一瞬考えましたが‥(^^;)
いやはや、時は流れ、建物など修復され、学習塾の時代と寺の雰囲気も変わり(記憶?)‥お見事です!

心月院が、九鬼家の墓所であれば、九鬼家の関する事柄が・・・
三田城は、九鬼家、そして、23代藩主隆義、その家臣、白洲退蔵・・・が歴史のなかで、三田藩の窮地を救ったなど、記さないといけない史実があるのだが‥

三田藩の川本幸民を通して福沢諭吉との関わりも・・・
儒者白洲退蔵を抜擢し、藩政に参与させ、蘭学者川本幸民を重用し福沢諭吉と親交を結ぶ。廃藩置県により、三田藩知事に任命される
神戸栄町に輸入洋薬販売の「志摩三商会」を設立、神戸女学院の基礎をつくることににも貢献する

その後、貴族議員を経て、宮内庁に勤める‥
明治24年逝去!

三田市、歴史の散歩道 案内板より引用

川本幸民
幕末・明治維新期の蘭学者。父は三田藩侍医の川本周安。その業績から、日本の化学の祖とも言われる
1829年(文政12年)、三田藩藩主九鬼隆国に命ぜられ江戸に留学し、足立長雋、坪井信道らに蘭学を学び、物理・化学に精通
1853年(嘉永6年)頃、日本で初めてビールを試醸
1868年(明治元年)、三田に帰郷し英蘭塾を開校する(この地が金心寺祉とあります)

三田市、歴史の散歩道 案内板より引用
金心寺址廃寺跡・・

この付近、結構、歴史の散歩道 案内板が多いね・・ちょっと立ち止まり歴史の中へ‥
一人、へ~えぇ!‥って!

備考:
白洲次郎・・・
日本の官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。兵庫県芦屋市出身。連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた

白洲退蔵は、祖父、父は、白洲文平、実業家である・・・Wikipedea引用
心月院に、白須家、白洲次郎の資料が多く展示されています

こうしてみれば、三田藩、日本の発展に大きく貢献した人が多いこと、全く知りませんでした


三田城跡から、少しだけ、見てまわりました
黒田官兵衛、荒木村重関連から、話しが、大きくずれ、膨らんでしまいましたが・・・
なかなか、充実したぶらり歴史めぐりでした!!

年、一度、三田市街の夜をウロウロではなく、昼間、ウロウロと・・・歴史をめぐり、歩きましょう!!




1 件のコメント:

  1. 昨日、初めて心月院を訪ねました。白洲次郎さん、正子さんのお墓参りがしたくて。思いがけず御住職にいろいろお話を伺い、ご案内いただき、豊かな時を過ごさせていただきました。白洲家の墓所は桜の花びらが一面散りしき、ひっそりと、清楚に、凛とした佇まいでした。ご住職から頂いたもろもろの資料、為になるものばかり。ありがとうございました。

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