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2014年7月27日

伊居太神社・・・大阪府池田市に現存する最古の神社!

池田城へ訪れた時、池田観光協会のサイトにて、ググっていると、伊居太神社の存在を!

延喜式内伊居太神社(いけだじんじゃ)は池田市に現在する最古の神社とされており、別名穴織(あやは)社で姫室塚があります。 本殿は織田信長によって焼かれ、豊臣秀頼によって1604年に再建されたとあります・・・(池田市観光協会HPより引用)

池田城から、五月山公園を歩き、進むと、なぜか横道から社務所の付近から入ってしまいました
で、振り返ると、鳥居が!・・参道の入口が違っていました
では、一旦戻って、鳥居からあらたに、参拝いたします
鳥居・・・鳥居の四隅には、4つの礎石があります・・門が建っていたのでしょうか?

鳥居をくぐりなだらかな参道、坂道を進みましょう

左手に・・・為那都比古大明神が・・・

見えてきた随神門(楼門)?・・・なかなかの立派などっしりとした門です
右下写真:境内より

門をくぐって、境内に・・・
左側に「御神木」でしょう・・根元より切られた上部が祀られています
・・・現在の御神木?も堂々とそびえています

拝殿(舞殿)です
天井見上げると、全て格天井です・・・一部、欠落が残念です!

拝殿の奥が、本殿です・・・格調高い、寄棟造りの本殿です。
本殿三社造 千鳥唐破風寄棟造りと称し全国でも唯一の珍らしい構造らしい

祭神は「穴織大明神」「応神天皇」「仁徳天皇」とのことで、三社造となっているのですね!
格子にいつものように、カメラレンズ差し込み・・・パチリです!
本殿前の唐門?修復中か?・・・シートが被さっていました

左手に回ると、神輿が収められている建屋も同じように、カメラレンズを入れ・・パチリ!
埃まみれの神輿が・・・
金箔で覆われた神輿、菊のご紋は埃で・・・残念ですね!
神輿、使われるお祭りがないのかなぁ?

「穴織(あやは)」は、かの時代に来日し機織の指導に当たった「穴織・呉織の師」に由来すると・・・

そして、ググってみると・・・縁の深い関係の神社があるとは・・・ここを居伊太神社を「上の宮」
深い関係のある、呉服神社は「下の宮」とあります・・後述、由来板に詳しく説明があります

そして、猪名川に架かる呉服橋、池田市の呉服町、芝居小屋の呉服座(愛知県、明治村に移築)等、様々な名称の由来にもなっていると・・
そう、昨年、愛知県、明治村・・呉服座・・・行きましたし、拝見しました

さぁ、戻りましょう・・・五月山公園、いい環境ですね!
野外ステージ、動物園、そして、五月山、そう、桜の名所なんです!
桜の季節は、遠くから五月山望めば、全山、ピンク、いや、桜色になりますよ・・・はい!



由来板より引用
正式名称は穴織宮居伊太神社といいます。
人皇16代応神天皇20年巳酉秋九月日本国に漢の直太祖後漢の霊帝4代の孫阿知使主その子、都加使主十七県の部下を率いて帰化した。そこで天皇の37年丙寅春2月天皇思召して天下人民衣服裁縫の術を知らず春夏秋冬の衣服が作れなかった今呉国には立派な縫工女が居ると聞き勅使として阿知使主都加使主に命じて呉国に縫工女を求めようと考えられた。二人は勅使となって呉国へ出発した。先づ高麗国に渡つたけれどそれから先、呉国への道を知らなかったので高麗王に願い久礼波、久礼志の二人を道案内者として選んで頂き漸く呉国に事故もなく到着した。
呉王は工女兄媛弟媛、呉織、漢織の四人の婦女を与へられたのである。今の世に呉をくれと読むのは道案内の久礼波、久礼志の名をかたどったのである二人の功績を忘れないためである。同天皇41年春2月阿使主等は呉より筑紫へ帰へり着いた時に胸形の大神が工女達を乞われたので兄媛を差し上げられた残り三人の工女を連れて津の国に帰着し以来呉衣縫蚊屋衣縫と云はれて居る由因は是である呉織は呉の人であり漢織は漢の人である。この二人は呉服の里に居住されたけれど弟媛は目何処に居られたか明らかでない。22代雄略天皇の時代にも呉織、漢織、兄媛、弟媛が来日して居るけれど此れは職名であり異人である。 応神天皇の時代の前から衣服裁縫の技が明かでなかった。
この二媛の教えにより天下の婦女が裁縫の術機織の術を教えられ四季の衣春秋の衣服上下の服装を教えられたその効により天皇は宮中に縫殿寮を設け縫部司縫女部を設け二女を祀られたのである。
これより先麻をつむぎ蚕を飼い桑の皮をつむぎ麻の皮から織物を作っていたのであるが二媛の教へにより呉織蜀錦等綾羅錦の衣服が出未るようになったのである。今呉服尺、呉竹、呉藍、生姜等此時に持帰へれるもので呉橘、冴床等もこの頃に呉国から我国に入り呉国の文化が広まった。二媛は一室にこのり、その身に光明がありひたすらに機織と裁縫に従事され百余歳の高令まで我国の文化の興隆に貢献されこの地に絹掛の松、染殿井、絹館の里、唐船潭等の地名が残るのも当然のことと思はれる此の二媛が他界されたので仁徳天皇は76年9月9日に衣服裁縫の功績を称えるため祭上の社、祭下の社を建立し両媛の功績をたたへ降世までその功を忘れない様に残され世の人々は文化発祥の神として代々お祀りを続けたのであります





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