有岡城跡、訪れれば、やはり、高槻城、茨木城、尼崎城・・・と・・・
今回は、高槻城、茨木城を巡ります・・・
城跡公園の北にある、国道171号線から北大手西の信号から入れば、すんなりいくものを、なぜか、南側から入ったため・・狭い道!・・鍵型に曲がり、やや、複雑な道・・・・「カーナビ君」の指示とうり、進むと大きな「P」へ・・・30分100円・・「α君」を停め、城跡公園へ向かいます・・・・
「P」の南・・・ 「槻の木高校」の角地に残る高槻城跡の石碑が・・・(校庭内につき・・と、注意書きが・・)
明治、城破却後は櫓や石垣などが鉄道建築の資材として使われ、当時の遺構はほとんど残っていないのです!・・ その石碑の左手にある石垣の根石が発掘されたものとのこと・・・ この根石しか、高槻城跡のものとして残されていないと・・ 後述する「しろあと資料館」の案内の方より説明いただきました・・・・ |
永禄十二年(1569年)和田雅長が入城・・・1571年戦死・・天正元年(1573年)芥川山城に居たとされる、高山飛騨守右近親子が入城・・その後、秀吉の直轄となり、さらに徳川の時代になり、慶安二年(1649年)永井直清が入城、以後十三代、240年間、永井氏が城主継承 そして、明治二年(1869年)版籍奉還 明治七年(1874年)高槻城破却まで、長き時を経てきた高槻城・・・
絵図から、三層の天守を持つ広大な城郭であったとされる・・・しかし、現在は、当時の遺構はほとんど残っていないのです!
城跡公園に入りましす・・・梅雨に合間の晴れ?・・写生の方々が多く、重要?ポイントに座って、絵を描いておられるので、写真撮影、アングルとりづらいね・・・
最初に目に映ったのは、高山右近の石像・・・結構大きなもの・・・・
荒木村重謀反の折、織田信長に子、妹を人質にだしていたため、降伏、その後、秀吉に仕え、高槻城の城主としては播磨明石へ移封までの12年間でした!
その後、秀吉のバテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否、領地、没収、徳川幕府により、慶長十九年(1614年)国外追放、マニラ到着後40日ほどで熱病にて亡くなったと・・・・
(高槻市案内板より一部、引用)
公園内の池、石垣は、城跡を感じさせる造りです・・・蛸公園もありますよ!
江戸時代中頃に建築された、妻入本瓦葺き、上屋の扠首構造 |
土間が広く、住居部分(畳)は少なく、商家の造りですが、家自体の間口が広いね!
では、高槻城のことを詳しく知るには・・・「しろあと歴史館」へ・・・
公園を出て、右側に・・・陸軍工兵第四聯隊跡の記念碑が・・・その駐屯地の営門が、平和のモニュメントとして残されています!
ふと、足元を見れば、又々、マンホール・・
これは汚水だが、なかなかですね! |
その門から、振り返れば・・「P」より見る高槻市の市役所、関連役所建物・・・
その中学校の先を右折すると、・・・「高槻市立しろあと歴史館」があります・・・おや?、ここには「P」が、・・無料です!
「しろあと歴史館」へ参りましょうか・・・入場無料です・・・ 入場して、受付の方に、「ここは写真撮影は可能ですか?」の問いに、今日は、全てここの品ですから、OKですと・・・! |
では・・と、できるだけ、歴史あるものを、撮影しておきましょう・・・!
まして、誰もいません・・・監視カメラを意識しながら(*^_^*)・・・パチリ、パチリです!
常設展示室と、展示室に別れ、展示室には、高槻市の川口氏コレクションと、常設展示室は高槻城と、街道などその歴史が展示されています
まずは、高槻城に纏わるものを・・・
西国街道・・・の、説明図から・・・
国道171号線・・呼び名が、「いないち」とも呼びますが、子供の折り、西宮市に住んでいましたから、西国街道!・・って呼んでいました! 西国街道は、山崎宿から、芥川宿(高槻)、瀬川宿(箕面市)、昆陽宿(伊丹市)そして、西宮宿(西宮市)それから、山陽道へと繋がります・・・ いまも高速道路、山陽道・・・むかしのまま、いいですね! |
左下の永井直諒(なおまさ)公旧家士、大阪府支配所とあるので、最後十三代目の明治の時代か?・・(私見) |
凄い歴史ですね!・・子孫、男の子、必須の時代やね |
どこに使われたものかは、不明です? |
さぁ、寄贈さえて展示されている川口コレクションの・一部を・・・(市内の美術品愛好家、故、川口義弘氏より173件、288点)
刀説明図 上左上:1 上右上:2 中左下:3 中右下:4 下左下:5 下右下:川口コレクション
時あるごとに、刀剣は拝見しますが、写真撮影不可が多く・・・
あまりにのも、綺麗なため、特大図で・・クリックいただくと、さらに大きくなります・・・m(_ _)m
刀ですが、芸術品ですね!
1:刀 銘・・越後守包貞(二代)
2:脇差 銘 河内守国助(二代)
3:脇差 銘 河内守藤原国助(初代)
4:銘 南都藤原文殊包守太郎兵衛・・
5:刀 銘 相州住秋広
鐔・・
鎧、甲
伝:佐久間象山の和時計
鉄砲、右、十手
右下:砲術大会の記録帳、鉄砲玉が命中した的
楼閣山水図屏風(個人蔵)
石田 幽汀・・・ 享保6年(1721年-天明6年5月25日(1786年6月21日)は、江戸時代中期の鶴沢派の絵師 幽汀は号で、名は守直 円山応挙、田中訥言、原在中らの師として知られる Wikipedia引用 |
「高槻市立しろあと歴史館」の内部資料、展示品は素晴らしく、・・・
城跡公園、資料館、歴史館を拝見して、高槻城跡・・よ~く!わかりました!
では、古絵図にもある、「野見神社」へ、参りましょう・・・・
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