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2013年12月20日

遷都の地を訪ねて‥紫香楽宮です

京都市、滋賀県、一泊二日の旅最終目的地「紫香楽宮」です
あの安土城跡を、汗、ボタボタになりながら、友人と、おっさん二人で標高199mの安土山、180mの大手道、402段の石段、登りました!

その、続きです
昼食です、我が友人
昼食後、実は、私と運転交代するのです!
なぜか一人、芋焼酎の水割り、飲みはります
私、いつもの、ノンアルコールビール・・うまい!
登山?の後のビール?最高です!
友人、芋焼酎の水割り・・薄いと言って、ロックを注文・・旨そうです
しかし、私は運転交代です・・(^^;)
昼食も終わり、紫香楽宮の宮町資料館を「カーナビ君」に設定です!
さぁ、行きましょう
うん!・・クラウン、運転、十数年、運転してません・・ホント!

ここで、「α君」との違い、クラウンは、ノーマルなガソリン車、「α君」・はハイブリッド車!
出だしのアクセル、開ける、踏み込み量、トルクが違います
「α君」と同じような感覚で踏むと・・
さすが、腐っても、クラウン、ドンッと走ります!!・・おお、ビックリ!

それからは、慣れるまで、法定速度で、「タラタラ」と・・!
県道53号を‥山道クネクネと
「カーナビ君」云われるままに、いや、助手席の友人の「左折や、右折や・の声で」
私、運転中心・・多分、友人、怖かったと思うよ、芋焼酎飲んでるから、よかったけどね(笑)

★・・・・前置きが長くなりました、紫香楽宮跡です・・・・★

と、云っていたら、着きました
「宮町遺跡 遺物展示室」・
えぇ!、休み?、プレハブ!です


帰って、調べると・・・
「宮町遺跡 遺物展示室・・前もって電話で予約」・そうなんや!
紫香楽宮跡、全て、下調べが、甘かった・・反省!

 仕方ないから持参した地図でウロウロと・・
ここで、「カーナビ君」・・表示サイズが25m、50m・・
そんなのでは近隣地図が表示されるわけがない
・看板頼りに進むも、遺跡、ありません・・
で、助手席の友人
私のデジカメで、稲刈りが終わった田をパチリ、パチリ・・この辺やで・・と!
しかし、この、パチリ、パチリが見事的中する、凄いことに・・・


 さすが、信楽、焼き物の里
道沿いに、狸の焼き物が・・
それも、パチリ、パチリ・・記念や!


 でも、肝心な紫香楽宮、ありません
再度、地図みて、こっち行ってみよう・・と!
そうしたら、「カーナビ君」の地図表示に出てきたではありませんか!
紫香楽宮跡って・・おい!!


県道53号線
その地図のとうり進むと・・・
はい!ありました「史跡紫香楽宮跡」


 遷都を巡って、残るは、紫香楽宮跡だけでした
これで、平安京までの遷都の地は全て、訪れたことになります!


紫香楽宮・・・740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京に移り、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる 恭仁東北道が開通し、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸したのである・・それが紫香楽宮なのです!

恭仁京の備忘録にも記しましたが、恭仁京は4年で造営が中止、しかし、聖武天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手します
さらに天平17(745)年正月元旦を、紫香楽宮にて迎えた聖武天皇は「新京」と証され、紫香楽宮は正式な都になったのです
しかし、都市をネットワークで結ぶという天皇の壮大な構想は過大な建設費や群発地震などの発生によって頓挫し、天平17年5月にふたたび、都は平城京に戻されます
幻の都と呼ばれていた紫香楽宮は短期間ではあったものの大仏建立など、「仏都」としての都市造りが始められた信楽の文化発祥の地なのです
平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と遷都していきましたが、僅かな期間ですが、都には間違いはありません

さぁ、散策です
小高い山を参道を登ると、そこには、伽藍の後が・・、礎石が・・
最初の場所は、中門(ちゅうもん)


 完全に残った礎石からみて正面三間、奥行二間、おそらく二重の楼門と思われる
中門の東西から回廊が出、それぞれ北に折れ、金堂を取り巻いて経楼、鐘楼にとりついている

次は、金堂・・


 周囲より一段と高い基壇上に、1.5m前後の礎石をすえている
正面七間、奥行四間の建物・・内陣と思われる

講堂・・


 金堂と並び重視される建物で、金堂と同規模の基壇上に建つ
正面七間、奥行四間の建物・・僧房に続いている

鐘楼・・・

 金堂、講堂の東にあり、三間四面の礎石が完全に残っている
寺院としてなくてはならない堂宇である・・奈良時代の遺構としては数少ない遺例であり重要な資料であると・・

僧房・・


塔院・・


 塔は仏舎利を奉安する建物・・おそらく五重塔であろう・・
塔を囲んで、別区をつくっている

この遺構は紫香楽宮造営の一環として造られた寺院の遺跡であり、後に甲賀宮国分寺となったと推定されている甲可寺の遺構とみられ、東大寺に先立つ寺院の遺跡として貴重である

礎石図、復元図にあるように、この遺跡は全ての伽藍が礎石が残っているようです
他の遷都の地の遺構には、残っていない?埋め戻されて?無かったこと記憶しています・・
ここは、山の中?・・・それも幸いして開発されていないのかもね・・・!

と、いうことは、やはり、先ほどの宮町地域が「紫香楽宮跡」
史跡紫香楽宮跡と、宮町遺跡からみて、紫香楽宮が大規模な造営であり、ここに都があったと解明されています


一番最初に伺った、「宮町遺跡 遺物展示室」が、中心位置に近いところなのです
しかし、車で農道を左右に走りまわりましたが、遺跡らしいものはありませんでした
前述しています、友人の畑の写真
これが!!・・新発見です


帰宅して、ググっていました
そして、なんの気なしに、紫香楽宮跡の公式サイトがあり・・
なんと、宮町遺跡第40次調査発掘が終了しました。現地説明会資料が下記からダウンロードできますと・・・
早速、ダウンロード・・2012年/平成24年 宮町遺跡 第40次発掘調査 現地説明会が2012年1月22日、そして、宮町遺跡 第40次発掘調査 記者発表資料 2012年1月16日を、発見・・・この資料から、宮町地区集会施設・・付近と・・判断・・しました!

そして、なんということでしょうか!・・恐れいりました・・googleストリートビュー様!

失礼ですが、信楽の田の農道まで、googleストリートビューがあるとは・・・撮影時期2012年12月とあります・・
で、宮町地区集会施設に「ストリートビュー君」に立ってもらうと・・・・おおおぉ・・田の中に・・白い箱らしき物(プランタン)が、整然と並んでいるではありませんか!

写真:googleストリートビュー引用

 「ストリートビュー君」に角度を変え、場所を変え・・見せてもらいました・・・その位置が、ダウンロードした、現地説明会資料にある宮町遺構遺跡配置図に示されている遺構と同じなのです・・・
この白いプランタンの位置が、遺構の場所なんです・・・と、云うことは、現地説明会が開催されたことを知って、googleストリートビューが撮影?・・そんな馬鹿な?・・説明会は2012年1月、撮影2012年12月・・
ほんと、いいタイミングで撮影されています・・・うん!! 永久に残してほしいね!
本当は、宮町遺構遺跡配置図載せたかったのですが・・著作権がね!
遺構は、埋め戻され、又、水田、田に・・・でも、田、耕すのに、メチャ気を遣うやろね・・・

いや、友人の撮った写真が、googleストリートビュー様が撮した写真が・・・これこそ、紫香楽宮跡、宮町遺跡なのです!
早速、友人にメールで知らせると・・「古代人の気配を感じたと!」・・なんということでしょう?・・感謝です!

史跡紫香楽宮跡と、宮町遺跡と広大な紫香楽宮跡・・・これで、目的は達しました・・・
友人と巡る、滋賀県の旅・・おっさん二人、珍道中・・お付き合いいただき、本当にありがとうございました!
又、古寺名刹を・・一緒に廻りましょう・・・嫌がられる・・かもね!!

はい、「α君」の待つ、京都市山科区の友人宅へ・・・今度は名神、京都東ICから帰ります!

一泊二日の旅・・・色んな意味で、充実した、そして、気の許せる友との旅もまた、いいものです・・・はい!

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