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2013年10月23日

遷都の地・・大津を旅する・・・三井寺!

飛鳥の地、藤原宮跡・・伝飛鳥板蓋宮跡と尋ねて参りました!

遷都に纏わる史歴にはまっている、平凡な、おっちゃん・・・いつか、行きたい地・・・
そう、 琵琶湖の滋賀県大津・・・近江大津宮錦織遺跡・・・

そうしたら、BS朝日、百年名家を尋ねる番組がありました・・なんという良い番組でしょうか!
あの、茅葺きの里・・美山を教えてくれた、番組です!(美山備忘録:2013年4月13日)
上下の画像はTV放送時のキャプチャー画面です・・・

なんと、近江大津宮錦織遺跡、そして比叡山、お膝元の坂本が・・・紹介されているでは、ありませんか!

同時に隣で見ていた嫁・・・「坂本やね!・・お蕎麦食べたいね!」・・・そう、・・かの有名な鶴㐂さん・・・
平凡な、おっちゃんは、勿論・・・近江大津宮錦織遺跡なんです・・が!

ほなら、・・ある御仁に、断りもせず?・・行こうか・・大津・・!!と突然決まりまして・・
大津行くなら、色々と所用もあるのですが・・・しかし、明日やから・・計画も、そして、ググっても・・・
時間が・・・・・・ありません!・・なにせ、思いつきの行動が多いのでっす・・・
でも、ある御仁のお陰で、大津は少しだけ、知っています!

では、目的地は・・・三井寺、坂本、近江大津宮錦織遺跡、石山寺・・と!いうことで・・
比叡山延暦寺、日吉大社・・・時間的に無理・・という結論・・と、いうことで、次回の紅葉時期に・・・

今回も4つに別けて、備忘録を記します・・・・では!!!・・・文、長いし、写真、多いです

最初は、三井寺・・・
名神高速、南大津バイパス・・・・Googleルート、,「カーナビ君」は京都東ICから1号線ルート!
なぜか、平凡な、おっちゃん・・・京都東ICから南大津バイパスから皇子山経由して三井寺へ・・・
昔、ある御仁と、この道を通り、来た記憶があるのです
皇子山公園、大津市役所前を通り、三井寺へ・・・久しぶりです!
三井寺、ほんと、昔、一度、来た記憶があるのですが・・記憶の絵柄が出てこない・・のです!
大津・・三井寺、石山寺・・うん!・・これが最初に浮かぶ、大津市の寺院なんです・・<(_ _)>

三井寺の広い駐車場に「α君」停め・・P料金500円・・

さて、伺いましょう・・・
多少はググってきましたが、そりゃ、広大な寺領・・三井寺の境内案内図を・・・・すごい数の建造物なんです・・

左右画像:三井寺ホームページより引用

では、まず・・・大門から・・・

大門・・ここをくぐると、受付です・・拝観料500円・・
受付の方、4つのお堂が開かれています・・どうぞ、ご自由にお入り下さい・・って・・!!
最初から、めちゃ、良い感じ・・です!
三井寺・・・・正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山なのです
ですから、いろんな説明板には、園城寺の文字が並びます・・・

大門・・・重要文化財 室町時代(宝徳四年1452年)・三間一戸楼門 入母屋造 桧皮葺です
いや、最初にドンッと構えられ、重厚な、・・古い!と感じさせられ、仁王さんが・・見張っています!

大門を入り、すぐ右に釈迦堂が・・・重要文化財 室町時代、正面七間、側面四間、一重入母屋造 桧皮葺
受付の方から聞いていますから、全て、お参りさせていただきます

最初から重要文化財 室町時代、重要文化財 室町時代と続き・・ここで、ググってきた資料を見ると・・
建物物だけでも、国宝 4つ、重要文化財 9つ、 県指定文化財 4つ・・凄いよね!

観光客誰も、いない参道・・いや、気持ちがいいね・・って、嫁と仲良く話ししながら・・・
手水舎で・・

おお、龍の口から水が・・その水にて・・、二人、お清め・・そして、いざ、金堂へ・・!

金堂・・・国宝 桃山時代(慶長四年1599年)・正面七間 側面七間 一重 入母屋造・向拝一間 桧皮葺
現在の金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって再建されたものです

いや、この屋根・・翼広げ・・さぁ、どうや!って・・感じ・・カメラ・・入りません・・下がって、下がって・・です!

その金堂の前に・・堂前燈籠が・・謂文・・天地天皇が大化の改新で、蘇我氏一族を誅し、その罪障消滅のため天皇が自らの左薬指を切り、この灯籠の台座下に納めたと・・あります

鐘楼(三井の晩鐘)・・・重要文化財 桃山時代(慶長七年、1602年)・正面一間 側面二間 一重 切妻造 桧皮葺
近江八景の三井の晩鐘として親しまれている大鐘です

特徴・・・

乳の数が一区内五段五系列の計百個と上帯内部の八個を合わせ総計百八個となっています。

百八煩悩に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品に当たります

そして、その横には、樹齢1000年と言われる、天狗杉が・・幹周り7.5mの堂々した・・大津市の指定文化財です

金堂の裏側?(接して)には・・閼伽井屋、三井の霊泉(閼伽井屋内部)が・・・
・重要文化財 桃山時代(慶長五年、1600年)・正面三間 側面二間 一重 向唐破風造 桧皮葺

この内部には井泉が湧き、天智・天武・持統天皇の 産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっています。
彩色や壁画が認められ、桧皮葺の屋根は丸いカーブを描いていますとのこと・・・彩色や壁画は井泉が気になり・・残念・・見ていません!

そして、拝見していると・・・、
何やら、「ボコッ!ボコッ!」と音がします・・
よく、聞くと・・・・・左奥から・・・
「ボコッ!ボコッ!」と音を発し、井泉が湧きでています・・
失礼なことと思いますが・・・パチリ・・
赤丸の部分より、「ボコッ!ボコッ!」と・・・・・

その横には、閼伽井石庭という案内板が・・・
説明によれば・・日本最古の庭園であり、不老不死の霊山を形どった庭園とあります

梵鐘(弁慶鐘)・・・
重要文化財 奈良時代、・銅鋳造 一口 総高199.0cm、身高156.0cm 口径123.2cm 重さ2250kg?
弁慶の引き摺り鐘とも謂われ、堂西方の霊鐘堂に安置される古鐘で、園城寺では数少ない智証大師入山以前の遺品です。
弁慶の引き摺り鐘とは・・
当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。 むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています
そ の後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。

お姿・・いや、伝説そのもので、損傷も結構あり、肌も傷つき、歴史の渦中の遺品ですね!!

続いて・・・
一切経蔵、八角輪蔵・・・・重要文化財 室町時代・・正面三間 側面三間・一重 もこし付 宝形造 桧皮葺
一切経蔵は一切経を安置するための堂で、 内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられています。

もとは国清寺の経蔵で、 慶長七年(1602)に毛利輝元によって移築されたものです

三重塔・・・・重要文化財 室町時代・三間三重塔婆 本瓦葺
三重塔・・写真、全体のアングル作れません・・仕方なく、唐院潅頂堂側から・・・パチリ・・です!

慶長二年(1597)、豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を 慶長五年に徳川家康が三井寺に寄進したものです

・・移築され・・寄進されと・・記されていますが、よく見る記述・・・移築する建造物、そのものを、解体、搬送、移築を繰り返す・・一から造らないのか?、費用なのか?・・、エコなのか?
所謂、その権力者が・・あれ、こっちへ・・その後、これ・・あっちへ・・みたいにな感じなのかね? 

唐院潅頂堂・・・重要文化財 桃山時代・・五面五間 側面五間 一重 入母屋造 桧皮葺
唐院を拝見し金堂の正面参道へ・・その途中、振り返ると・・凄いね・・荘厳な参道やね・・
左右の写真の石垣も穴太積なんでしょうね!

金堂の正面参道から、南へ・・・微妙寺・・
十一面観音立像・・・・重要文化財
平安時代(九世紀)・木造 彩色 像高81.8cmが居られるのですが、非公開・・です!

堂内に入り、お参りを・・・
    
毘沙門堂・・・重要文化財 江戸時代(元和二年 1616)・正面一間 側面二間 一重 宝形造 桧皮葺

毘沙門堂は、もともと園城寺五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内に元和二年(1616) に建立され、明治以降に三尾社の下に移築、戦後の修理に際して現在地に移りました。内部には文様などが彩色で描かれており、桃山建築の系譜を受け継いでいますと・・あります

移築されたとはいえ、ひっそりと、静かな、すこし、小高いところにおわします・・!

又々、見上げるような階段・・左側通行にて、観音堂へ・・
ヒィヒィ!・・いいながら、上がると、そこは観音堂境内・・・
右に、県指定有形文化財の鐘楼が・・・
文化11年1814年に建立で、総欅造りでまとめ正規の手法にての鐘楼として見るところが多いと・・
その内部の鐘を・・・パチリ・・
そして、謡曲「三井寺」と観月舞台・・・が、あり・・謡曲「三井寺」知りませんm(_ _)m

そして、観音堂・・・ 県指定文化財 江戸時代(元禄二年 1689)・礼堂:正面九間 側面五間 二重 入母屋造 本瓦葺 ・正堂:正面三間 側面二間 一重 入母屋造 桧皮葺
西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所として、篤く信仰されています。本尊は如意輪観音。 貞享三年(1686)に火災にあい、元禄二年に再建された大きな堂です

観音堂の側の小高い山の見晴台から・・・観音堂全体を、絶景・・琵琶湖が・・・

ヨタヨタしながら、急な石階段を、・・・水願寺へ・・
正直・・ここは、パスっと・・言ったのですが、やはり、もどり・・堂内へ・・

案内板の内容どうり・・
すばらしい仏像の数々・・・
拝見させていただきました・・・

ここまで、出口です・・・・あぁ、しんど!!・・疲れました!

そんな時、出口兼入口・・案内のおばさんと一言を交わすと・・・

「凄い場所ですね・・・」・・と!・・云うと・・・
「天智天皇の荘園でしたから、他所とは違います・・雰囲気、空気全て違いますと・・」

帰って、この辺をググってみると・・・・(三井寺ホームページより引用)
大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 荘園であった「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。

ここのそれぞれのお堂の受付の方々・・ほんと、気持ち良く迎えてくれ、送られました・・!
最後の受付の方も・・ぜひ、紅葉の時季に・・早朝が一番ですよ・・と!
そして、電話にて、紅葉の進み具合をお尋ねに・・どうぞ!!と・・・ほんと、親切にね!!

では、出口より、駐車場へ・・・その途中に・・・護法善神堂があります

護法善神堂・・・市指定文化財 江戸時代(享保十二年 1727)

三井寺の守護神で、本尊は護法善神として鬼子母神を祀っています
護法社表門から・・入り直すと、やはり・・素晴らしい造りです
その参道に護法社石橋(渡ることは出来ませんが・・)があり、市指定ではありますが、享保12年1727年建立・・歴史です!

これで、ぐるっと・・ほんと、ほぼ制覇?しました・・所要時間2時間弱・・さぁ、坂本へ・・

現時刻11時半・・お昼ご飯・・待望の、坂本、鶴㐂蕎麦・・です・・続きますよ!

この備忘録の建造物の由来は、三井寺のホームページより、記事引用させていただきましたm(_ _)m


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